映画「風立ちぬ」(2013)感想(3)
●結局、ファンタジー
航空機の設計者が映画に登場する作品は少ない。しかし
例えば「レッドバロン」(1971)や、ほぼ同じ邦題の「レッド・
バロン」(2008)に登場するフォッカーはどちらかというと、
戦争すら商売に利用しようとする狡猾な人間のように
描かれていた。
この映画における「堀越二郎」は、「ただ美しい航空機を作りたい」
というポリシーのもと、単なる航空機ではない「戦闘機」の設計にその
ポリシーを持って力を尽くす、という人間に描かれている。
戦争兵器である事を全く気にしていないわけではなく、ある程度
気にしている事は、映画の随所に描かれている。
現実の堀越二郎はどうか。設計者としての当然の願望として、「優秀な
航空機を作りたい」という目標はあっただろう。航空機の場合、流体
力学、航空力学によって設計(デザイン)はなされるので、「優秀=
美しい」という法則はある程度、成り立つ。
しかし、性能よりも「美」の方を優先させる、という事はないであろう。
この映画で、堀越がサバの骨を見て「美しい曲線」を発見する
シーンがあるが、これも映画の創作である。
もちろん、これは「事実を元にした映画」であってドキュメンタリーでも
伝記映画でもないので、映画の堀越が現実の堀越と違っていても
構わないといえば構わない。
しかし、例えば「零戦の形状の美しさ」の生まれた主要因が、用兵者側の
厳しい要求‐速度や格闘性能に対する‐であった事を考えると、堀越が
「ただ美しい航空機を作りたい」が為に、用兵者側の要求をまるで
無視するような形で七試単戦→九試単戦といった流れで試作機の設計を続け、
最終的に零戦に至る、という描き方をしたのは、少々無理があるか、
という気もしてくる。
それにしても、私のような一般的な航空機ファン、零戦、96艦戦も好きな
人間はこうした事も感覚的に分かるが、そうでない人間はそもそも
零戦とか、それに至るまでの九試単戦とかが「美しい」という事が
感覚的に伝わらず、より分かり難いのではないか、という気はしてくる。
単に「美しい航空機」というのであれば、同時代なら航研機とか、キ-77と
いった「兵器ではない」機体が思い浮かぶ(キ-77は軍用に近いが)。
(続く)
航空機の設計者が映画に登場する作品は少ない。しかし
例えば「レッドバロン」(1971)や、ほぼ同じ邦題の「レッド・
バロン」(2008)に登場するフォッカーはどちらかというと、
戦争すら商売に利用しようとする狡猾な人間のように
描かれていた。
この映画における「堀越二郎」は、「ただ美しい航空機を作りたい」
というポリシーのもと、単なる航空機ではない「戦闘機」の設計にその
ポリシーを持って力を尽くす、という人間に描かれている。
戦争兵器である事を全く気にしていないわけではなく、ある程度
気にしている事は、映画の随所に描かれている。
現実の堀越二郎はどうか。設計者としての当然の願望として、「優秀な
航空機を作りたい」という目標はあっただろう。航空機の場合、流体
力学、航空力学によって設計(デザイン)はなされるので、「優秀=
美しい」という法則はある程度、成り立つ。
しかし、性能よりも「美」の方を優先させる、という事はないであろう。
この映画で、堀越がサバの骨を見て「美しい曲線」を発見する
シーンがあるが、これも映画の創作である。
もちろん、これは「事実を元にした映画」であってドキュメンタリーでも
伝記映画でもないので、映画の堀越が現実の堀越と違っていても
構わないといえば構わない。
しかし、例えば「零戦の形状の美しさ」の生まれた主要因が、用兵者側の
厳しい要求‐速度や格闘性能に対する‐であった事を考えると、堀越が
「ただ美しい航空機を作りたい」が為に、用兵者側の要求をまるで
無視するような形で七試単戦→九試単戦といった流れで試作機の設計を続け、
最終的に零戦に至る、という描き方をしたのは、少々無理があるか、
という気もしてくる。
それにしても、私のような一般的な航空機ファン、零戦、96艦戦も好きな
人間はこうした事も感覚的に分かるが、そうでない人間はそもそも
零戦とか、それに至るまでの九試単戦とかが「美しい」という事が
感覚的に伝わらず、より分かり難いのではないか、という気はしてくる。
単に「美しい航空機」というのであれば、同時代なら航研機とか、キ-77と
いった「兵器ではない」機体が思い浮かぶ(キ-77は軍用に近いが)。
(続く)
JUGEMテーマ:映画
- 2015.04.28 Tuesday
- 映画・映像など
- 22:47
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- by コウ中村